安斎さんのこちらのVoicyを聴いて読んでみようと思った本。
安斎さんのレビューを聴いてて、ある程度知っていながら読んだ本ではありますが、「じつは・・・だった」構文のインパクトは想像以上でした。
訂正する力とは
第1章のまとめで次のように定義されています。
訂正する力とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力のことです。それは、持続する力であり、聞く力であり、老いる力であり、記憶する力であり、読み替える力でもあります。
「過去との一貫性」というのは、過去を否定しない、リセットしない、ということ。
過去があるから現在がある、と捉える。
仮に、過去の失敗体験も、そこから学び、解釈を変え、新たな意義を見出し、生きる糧にしていく。
訂正する力は、人生をより良く生きるための幸福哲学にも通じるものがあると感じました。
訂正の経験を売る
近年、CX(Customer Experience:顧客体験)やUX(User Experience:ユーザー体験)がサービスや製品を提供する上で重要な概念となっています。
本の中で、著者が運営するゲンロンカフェが「訂正という顧客体験を売るための場」なんだ、ということが語られていました。
面白い発想だと思いました。
顧客はコスパ、タイパの時代に生きていながら、「じつは・・・だった」と自身の固定観念や執着を打ち砕かれるような感動体験-それが訂正-を求めているのではないか、という仮説を実証しようとしている、そう思いました。
サクッとテキストベースでやりとりするようなコミュニケーションでは劇的な訂正力は生まれず、動画だったり、対話だったり、長い時間を要するところがある、と著者が主張するのもなんとなく理解できました。
訂正する人たちに囲まれろ
これも面白いなぁと思いました。
いったい、どういうことか?
人を年齢や職業、社会的地位などの属性で判断する人達に囲まれても、決して豊かにはなれない、と著者は主張します。
なぜなら、その人達がイメージする属性に紐づけされた役割期待にいつまでも応え続けなければならないから。
豊かな人生を送るためには、自分の価値を「○○さんってじつは・・・だったのね」と再発見してくれる人たち(この人たちのことを「訂正する人たち」と呼んでます)が周りに必要なんだ、と言っているわけです。
誤解を恐れずに言えば、「ちゃんと自分を見てくれる人」「利害関係抜きで心を開いて語り合える人」が大切、ということでしょうか。
まとめ
普段、あまり使わない「訂正」というワードですが、人生というライフステージを通じてとても重要な概念であることを教えてもらいました。
私も50代となり、それなりに紆余曲折のある人生を歩んできたわけですが、ふりかえるといくつか人生の分岐点となる出来事が思い出されます。
現在、探究しながら新しいキャリアを目指そうと努力(と書くと必死感があるように思われるかもしれませんが、至って楽しくやってます)し続けられるのも、過去の出来事があったればこそだと感じていますし、今後もそこはブレずにやっていきたいと思っています。
追記
「じつは・・・だった」構文は、すでにTVの世界でも実現されていた。
池上彰さんの「そうだったのか!」シリーズのTV番組もあるなぁと思った。TV番組のタイトルだけで言えば、林修さんの「初耳学」も同類かもしれない。要は、「訂正」体験を味わいたい視聴者をメインターゲットにして番組づくりを行っている、ということ。